2007年08月15日
酷く暑い日 … 終戦記念日に寄せて
まだ祖父が存命だった頃……
終戦記念日になると仏壇へ手を合わせ、何か難しくてめんどくさいお経を上げていた。
祖父は旧「帝国」海軍の職業軍人だったが、一方で寺の坊主でもあった。
『おじいちゃんは生き残っちゃったから……』
その後の言葉を聞いた覚えが無い。
そして、聞きたいと思った事も無い。
でも、自らが語る事は無かったし、語ろうともしなかった。
きっと、腹の底に収めて墓の中まで持っていった話が沢山あるんだろう。
世界に冠たる7大戦艦の1隻に勤務し、善行章を何本も付けた祖父はきっとそれが誇らしかった筈だ。
でも、その生活は開戦より約2年の昭和18年6月8日、唐突な幕切れをもって終わりを告げた。
それからの足取りを祖父は詳しくは話してくれなかった。
船乗りである祖父が陸上勤務になったのは納得いかなかった部分も大きいのだろう。
そして、終戦は千島列島のある島で向かえたそうだ。
その日。
遠くカムチャッカ半島から連なる火山帯に乗った島で終戦を迎えた祖父は、どういう訳か内地へ帰る最初の船に乗ったそうだ。
その翌日、あのクサレキチガイの露助どもが軍事侵攻を始め、祖父の居た島は激烈な抵抗戦闘の末、島の住人と守備隊全員がシベリア送りにされると言う悲劇を生んだ。
祖父の昔話には九死に一生を得た話が多数登場する。
戦時中は祖父の抜けた勤務地が4度も酷い目にあった事になっている。
だから、祖父は多くを語らなかったのかもしれない。
一度だけ聞いた言葉。
『一緒に死んでやれなかった……』
実際は大正元年生まれだが、本人はあくまで明治45年生まれだと言い張った祖父の、その決して僅かではない後ろめたい引け目感。
何度も死線をくぐった戦友が、自らの抜けた後で酷い思いをしているのだとすれば、義理固く責任感に溢れる明治の男にあこがれた祖父にとって、それは自らの死の時まで心の片隅に有ったのではないだろうかと今更ながらに思う。
『終戦記念日は一年で一番暑くなる日だ。でも、今日だけは我慢しろ。今日は特別な日なんだ』
祖父はそんな事をよく言っていた気がする。
戦後の発展を眺めながら、その中で無責任な戦争当事者誹謗論にも無言で堪えてきた祖父の、そのボソリとこぼす一言に、祖父はどれ程の意味を持たせていたのだろうか。
昨年8月。炎暑の縦貫線を撮っていた時、ふと目に付いた温度計は36℃をさしていた。
『軍艦の主缶室は40℃を越える事も良くあった、でもな、釜焚きは文句を言わないんだよ、釜焚きは釜を焚くのが仕事だったからな。文句を言うのは仕事じゃないのさ』
敢て地下百尺の捨石と成らん……
そう言っていた明治の男は、言い訳する事を極端に嫌っていた。
酷く暑かった終戦記念日。
今日この日も日本のどこかで、敢て何も言わずただ敗戦の責に耐える旧軍の職業軍人が居るんだろう。
高く蒼くある空に白い雲が浮かび、強い日差しが降り注ぐ日。
この空をもう一度見たいと願いつつ、遠く異郷の地に果てた多くの霊が盆供養の祖国へ帰りつけるよう願っています。
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投稿者 風来坊 : 2007年08月15日 23:20
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コメント
水無月さん おばんでした♪
実は、私の祖父、昭和18年後半から19年中頃まで海軍の陸戦隊で上海へ赴任していました(笑)
その頃の話がまた壮絶で、祖父は他界するまで大陸人を毛嫌いしてましたね・・・・
まぁ、聞かされたエピソードの数々から、大陸で『実際にあった事』を考えると、今の中共政府が言う所など東スポの一面と争うレベルだなってのは良く分かりますし(汗)
そもそも、人様に迷惑をかける事を何とも思わないし、他人を騙しても儲けて偉くなる事が立派な事と賞賛される文化の地域で自称被害者が続出するのは当たり前の事なんですがねぇ・・・・(あれ?Blog間違えたかな?)
祖父の遺品の中に、戦前の日本水泳協会が認可した水泳指導員免許と言う物があります。
それには、祖父の本籍地と勤務地が『軍艦:陸奥』と記載されていて、職業軍人で船乗りの場合は乗務艦が本籍となった時代があるんだなぁと思ったものです。
で、いつぞやのオフ会でもお話したかと思いますが、実は小生、生理的に霧が大嫌いでして、霧に巻かれると生きた心地がしない上に金○が縮み上がる位なんですけど、存命の祖父にその話をしたら・・・・
「お前も船乗りの血が濃いんだなぁ」
と、言われた事があります。
祖父の勧めにしたがって商船学校にでも行っていたら、また違った人生だったかなぁとか、最近思いますね(笑)
おじいさんはビッグセブン、陸奥の乗組員でしたか。
私の祖父は陸軍の人間でした。
もう少し遅く生まれていたら間違いなく餓島に行ってただろうなぁ、などと聞いたことがあります。第二師団でしたしね。(主に上海事変だったようです)
風来坊様のおじいさんと違って私にはいろんなことを話してくれました。 私がそう言う話しを聞きたがっていたのと、孫の代までで直系の男子が私だけ、ということもあったのでしょう。
でもそれ以上に、軍隊は彼の青春そのものだったように思えます。
祖父が急逝してからもう20年かぁ… おいらも年取ったなぁ。
投稿者 水無月 : 2007年08月16日 23:30